「溜池備忘録」その4「人口減少社会とGDP600兆円」

2015年12月15日

CSAJ 専務理事 前川 徹

アベノミクス第2弾

 「名目GDPを600兆円にする」と聞いて驚いた。言うまでもなく安倍内閣が掲げた「新三本の矢」の話である。日本の名目GDPが21世紀に入ってから500兆円前後で推移していることを前提に考えれば、この600兆円はかなりインパクトのある数字である。ニュースでも大きく取り上げられ、さまざまな議論が巻き起こったのも当然だろう。この600兆円という数字は、アベノミクス第2弾の認知度を高めるという大きな役割を果たした。しかし、本当に達成可能な目標なのだろうか。
 まず、新三本の矢について復習しておこう。
 第一の矢は『希望を生み出す強い経済』であり、現在の名目GDP500兆円を600兆円にすることが目標となっている。
 第二の矢は、『夢をつむぐ子育て支援』で、結婚や出産等の希望が満たされることにより希望出生率1.8がかなう社会の実現である。具体的には待機児童解消、幼児教育の無償化の拡大(多子世帯への重点的な支援)等が課題となっている。
 第三の矢は、『安心につながる社会保障』であり、介護離職者数をゼロにすることが目標となっている。このため、多様な介護基盤の整備、介護休業等を取得しやすい職場環境整備を進め、「生涯現役社会」を構築するとしている。
 この「新三本の矢」は「矢」ではなく、「的」ではないかという批判はさておき、いずれもそう簡単に達成できるような目標ではない。特に名目GDP600兆円はかなりハードルが高い。しかし、よく見てみると、政府の資料には、いつまでに600兆円を達成するのかが明記されていない。マスメディアが2020年度だと報道しているので、仮に2020年度だと仮定すると、名目GDPの成長率が毎年3%以上であれば達成可能だということがわかる。平成26年度(2014年度)の名目GDPは約490兆円なので、2015年度から毎年3%で名目GDPが拡大すれば、2020年度には585兆円、2021年度に602兆円に達する。したがって、平均して3%超の成長率であれば達成できる目標なのである。問題は名目GDPの成長率を3%超にできるかどうかにある。
 ちなみに、2013年8月に閣議決定された中期財政計画『当面の財政健全化に向けた取組等について』には、名目GDP成長率3%という経済成長を2020年まで続けるという目標が記載されているので、名目GDP600兆円という数字は、この中期財政計画から生まれたものなのかもしれない。

人口減少社会

 結論から言えば、名目600兆円の達成はかなり困難だろう。(ちょっと荒っぽい議論になってしまうが)最大の理由は、日本が人口減少社会になっているからである。日本の総人口は2008年の1億2,808万人をピークに減少を続けている。人口予測は、さまざまな予測数字に中でも、かなり確度が高い。20年、30年先の人口予測にはある程度の誤差が生じるが、数年先の人口はかなり正確に予測できる。ちなみに、国立社会保障・人口問題研究所の出生中位・死亡中位推計結果によれば、2020年の総人口は1億2410万人であり、2015年に比べて約250万人減少する。人口が減少するということは、一人当たりの消費支出が変わらないという前提で考えれば、GDPの約6割を占める家計最終消費支出は減少する。人口減少社会では住宅投資にも期待はできない。家計消費や住宅投資といった国内需要が伸び悩むのであれば、民間の設備投資にも大きな期待はできない。もちろん海外の需要が伸びるということも考えられるが、より人件費の安い海外での生産が増えていることを考えると、日本のGDPが伸びることにはならない。

名目GDP600兆円は達成可能か

 アベノミクスを擁護する専門家は、600兆円という目標が名目値であることを強調している。つまり、物価上昇によってGDPデフレーターが大きくなれば、実質的に経済成長しなくても名目GDPは大きくなる。つまり、これから数年間、毎年物価が3%以上上昇すれば、名目GDP600兆円は達成できる。あるいは実質GDP成長率1%+物価上昇率2%の組み合わせでもよい。
 しかし、経済学的に考えれば、需要が縮小する中で物価が上昇することは極めて稀である。需要が縮小する以上に供給が縮小すれば需給ギャップが縮まり物価が上昇する可能性があるが、あくまでも可能性でしかない。
 こう考えてくると、国内需要を無理やりにでも増やすしか600兆円を達成する方法はないように思えてくる。政府は所得が増えれば消費も増えると考えているようだが、国民の多くは公的年金だけでは老後の生活には不十分であると考えているため、仮に所得が増えても、増えた所得の大半が貯蓄にまわるだろう。残るは大胆な財政出動だが、12月18日に閣議決定される予定の補正予算は3.5兆円程度と報道されており、景気を下支えすることはできても、600兆円実現にはそれほど寄与しないだろう。
 ただ、名目GDP600兆円を達成する方法がないわけではない。国債を大量に発行してデフォルトを起こすことである。国債のデフォルト処理のため、日銀は大量に円を刷って国債を買い上げることになり、市場にあふれた円によって物価が急上昇する。年率100%以上の(つまり物価が2倍以上になる)インフレが起きれば、一気に名目GDPは600兆円を超えるだろう。しかし、その一方で日本経済は計り知れないダメージを受けることになる。当然のことながら、この選択肢を政府が選ぶことはあり得ない。

 日本経済を明るくするために名目GDP600兆円という目標を掲げたのかもしれないが、もう少し現実的な数字を示した方がよかったのではないだろうか。たとえば、国民一人当たりのGDPを目標にすれば、もう少し現実的な目標を設定できたのではないかと思う。

筆者略歴

前川 徹 (まえがわ とおる)

1955年生まれ、1978年に通産省入省、 機械情報産業局情報政策企画室長、JETRO New York センター 産業用電子機器部長(兼、(社)日本電子工業振興協会ニューヨーク 駐在員)、情報処理振興事業協会(IPA)セキュリティセンター所長 (兼、技術センター所長)、早稲田大学 大学院 国際情報通信研究科 客員教授(専任)、富士通総研 経済研究所 主任研究員などを経て、2007年4月からサイバー大学 IT総合学部教授。2008年7月に社団法人コンピュータソフトウェア協会専務理事に就任。

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